万国博覧会・国際博覧会を知ろう(最終回) 寄稿・桜井 悌司(元ジェトロ監事・展示事業部長)

博覧会誘致に協力した話
国際博の開催国になるには、BIE加盟国の賛同を得なければならない。過去の登録博(一般博)の競争状況を調べてみると下記の通りとなっている。

*1992年セビリャ万博:シカゴとセビリャが立候補したが、シカゴが途中で断念。
*2000年ハノーバー万博:ハノーバーとカナダのトロントの競争。
*2005年愛知万博:愛知とカナダのカルガリーの戦い。
*2010年上海万博:上海、韓国の麗水、モスクワ、メキシコのケレタロ、ポーランドのヴロツワフ(Wroclaw)の競争。
*2015年ミラノ万博:ミラノとトルコのイズミールの戦い。
*2020年ドバイ万博:ブラジル・サンパウロ市、ロシア・エカテリンブルグ市、トルコ・イズミール市、アラブ首長国連邦・ドバイ首長国、タイ・アユタヤ市の競争。

筆者もささやかながら万博の誘致活動に協力したことがある。最初は、愛・地球博の誘致活動である。1990年代初めに愛知県から数年にわたって、万博の誘致に係る調査を委託された。前述の竹田一平さんが責任者であったが、筆者もこの調査に携わった。万博に関する各種ルールの解説、国際博覧会の動き、BIE加盟国の動向等の調査である。また1992年セビリャ万博、1993年太田国際博覧会の日本館の中に愛・地球博の広報ブースを設置し、選定に向けてのプロモーションを行った。セビリャ万博では、愛知デーも組織し、各種パーフォーマンスやレセプションを行った。その後、ミラノに駐在(1996〜99年)になったが、当時の通商産業省の万博担当の商務室長より、電話があり、BIE総会を前にして、愛・地球博の直前のプロモーション・ミッションを派遣するので、手伝って欲しいとのことであった。具体的には、パリを訪問する豊田自動織機の副社長を団長とする万博誘致事前ミッションに同行して、3日間各国大使館を周り、日本への投票を依頼する仕事であった。

その後、2020年の万国博覧会には、前述のように5つの国が立候補した。サンパウロに駐在経験もあり、サンパウロ開催が決まれば、ラテンアメリカで最初の開催国になる。誰に頼まれたわけではないが、サンパウロを応援したいと考え、2012年秋に「2020年サンパウロ万国博覧会を実現させるには」という提言書をとりまとめた。内容は、候補国と都市の観点、地域的・地理的観点、テーマから見た観点、治安問題の観点、発展途上国への出展支援の観点から候補国を分析し、そこからブラジルはどうすれば、選挙に勝利できるかを提案したものである。

5ヶ国を比較すれば、治安上の観点を除き、すべての面でサンパウロの優位性は十分にあったが、当時、2014年にはサッカーのワールドカップのブラジル開催、2016年のリオ・オリンピックの開催が決定しており、もともとブラジルは、愛・地球博にも参加していないことでもわかるように、国際博覧会に熱心でなく、連邦政府もそれほど力を入れていたわけではなかったので、あっけなく予備選挙で敗戦となり、最終的にドバイに決定された。筆者の夢も潰えたのである。

セビリャ万博日本館は、豪華キャストの総動員
セビリャ万博の日本館の成果については、本稿でいくつか取り上げさせていただいた。筆者は、このプロジェクトに丸4年間従事した。今から思うと多くの豪華キャストに恵まれたものと思う。

まず、日本政府代表は、ソニーの創始者で経団連副会長であった盛田昭夫さん。その魅力は、セビリャ万博公社のトップたちを魅了した。公社に盛田代表がセビリャを訪問すると伝えたところ、公社側主催の昼食会を催したいとのオファーがあった。公社のナンバー1から4まで総出で昼食会に出席した。1992年7月20日のジャパンデーのパーティには招待していないにもかかわらず、エストニアの大統領や世界的チェリスト・音楽指揮者のロストロービッチもわざわざ盛田さんに挨拶するために、突然、パーティ会場にやってきた。米国の著名な映画俳優のマイケル・ダグラスも盛田さんに会うために日本館を訪れた。
プロデユーサー・グループも堺屋太一さん、安藤忠雄さん、平野繁臣さん、北本正孟さんと最強軍団であった。ユニフォームの制作は、皇室御用達の芦田淳さん、安土城上層部の華麗な障壁画36枚の制作にあたったのは、東京芸術大学学長の平山郁夫さんの監修のもと、東京芸術大学の福井爽人さん、京都芸術大学の上村淳史さん、日本館のロゴ作成には、世界的なグラフィックデザイナーの田中一光さん、安土城上層部の設計には、名古屋工業大学教授の内藤昌さん、折り紙コーナーは折り紙の神様的存在だった吉澤章さん、日本館回転劇場の椅子の設計は喜多俊之さん、同じく回転劇場の映像は、ニンジャ佐助がドン・キホーテとサンチョ・パンサに日本を案内するというストーリーであったが、藤子不二夫Aさん、日本館のVIPルームで作品を展示していただいた日本画家濱野俊宏さん等々である。

ジャパンデーのアトラクションのメインは、世界的ミュージシャンの坂本龍一さん、美声で聴衆を魅了した森山良子さん、サルサで有名なオルケスタ・デ・ラ・ルス、ジャパンデーの式典で歌舞伎の舞踊を披露した6代目尾上丑之助さん(現在の5代目尾上菊之助さん)、ファッションショーを演出した四方義朗さん等々である。31年がたった今、多くの方がお亡くなりになった。ご冥福をお祈りしたい。万博は、このような豪華なキャストに恵まれるイベントであるということを再認識したものだ。
筆者もこの万博に参画して、大変苦労したが、大いにエンジョイすることができた。関係した多くの人も思い出深いとみえ、今までに同窓会を定期的に行ってきた。最初はセビリャ万国博覧会日本館10周年記念パーティを開催し、その後、15周年、20周年、25周年のパーティを行った。今年の7月21日、31周年記念パーティを東京のセルバンテス・インスティトゥート内のレストラン、メゾン・セルバンテスで行った。ジェトロ、経済産業省、事務局、
アテンダント、広告代理店、レストラン・売店、参画した装飾企業関係者等68名が集まり、当時の話で盛り上がった。

セビリャ万博終了後に、日本館の事務局員とコンパニオンに2つの感想レポート集をとりまとめた。一つは「セビリャ万国博覧会 日本館事務局員奮戦記」A4、83ページ、17名が執筆した。もう一つは「セビリア万博の想い出 ―日本館コンパニオンの異文化体験―」でA4、78ページ、19名が執筆した。今から読み返してみると日本館参加者の多くが、様々な難しい仕事を一つずつ克服したこと、数々の異文化交流を体験したこと等が理解できる。